東窯跡は、全長120mで、17世紀後半から1937年まで使用されており、金剛谷窯と呼ばれた三川内皿山で最大規模の登り窯です。西窯跡は、全長100mで、1941年まで使用されており、高麗窯・中通窯とも呼ばれいました。両窯とも藩の御用窯として重要な役割を担っておりましたが、昭和初期の頃閉窯になりました。現在では、どちらも坂道沿いに民家が建てられており、敷地壁に、その名残が見られます。