天領地として、幕府から命じられた長崎奉行が支配した長崎。奉行の下で、地元の役人(地役人)の町年寄が町の行政を司りました。町年寄は当初4人制で、幕末には9人制にまで増やされます。その中の一人である高嶋氏の屋敷が、現在の家庭裁判所の場所にありました。屋敷は天保9年に小川町の大火で焼失。主人である秋帆は小島の別邸に移ります。その後は再建され、安政4年から3年間は屋敷内に医学伝習所が置かれたそうです。