本五島町乙名で廻船問屋をしていた倉田次郎右衛門は、当時の長崎の水利の悪さを憂い、寛文7年に長崎奉行の松平甚三郎隆見の許可を得て水道工事に着手します。私財を投じた工事費が一度は不足したものの、その活躍に感激した松平甚三郎が援助。7年後の延宝元年にようやく完成した水路は、丸太材をくり抜いた水樋を杉皮などで包んで埋設したものでした。以降、倉田家は給水や補修などを司る水樋係となり、代々世襲されます。