寛永時代初期、キリシタン全盛の長崎で市内各戸をまわって真宗の教義を説いた守讃。数千人の信者を獲得したことに長崎奉行の竹中采女正は喜び、寛永9年に東中町の地を与えて一寺建立となりました。寛永17年には、京都西本願寺より瑞雲山西勝寺の号を受けます。また西勝寺には、棄教したイエズス会宣教師のフェレイラの誓書が書き添えられた歴史的な資料「きりしたんころび証文」が大切に残されています。
寛永時代初期、キリシタン全盛の長崎で市内各戸をまわって真宗の教義を説いた守讃。数千人の信者を獲得したことに長崎奉行の竹中采女正は喜び、寛永9年に東中町の地を与えて一寺建立となりました。寛永17年には、京都西本願寺より瑞雲山西勝寺の号を受けます。また西勝寺には、棄教したイエズス会宣教師のフェレイラの誓書が書き添えられた歴史的な資料「きりしたんころび証文」が大切に残されています。