編笠橋は江戸時代には第四橋と呼ばれていて、明治15年に西道仙によって編笠橋と命名。今博多町に花街があった頃、武士などがこの橋を編み笠で顔を隠して登楼していたことや、今博多町を“あめがた町”と呼んでいたことから、この名前となったそう。江戸時代初期は木橋でしたが、元禄12年に有力者の岸村氏夫妻の私費によって石橋となります。大水害によって流出しますが再架され、昭和61年には階段付きの太鼓橋と変わります。
編笠橋は江戸時代には第四橋と呼ばれていて、明治15年に西道仙によって編笠橋と命名。今博多町に花街があった頃、武士などがこの橋を編み笠で顔を隠して登楼していたことや、今博多町を“あめがた町”と呼んでいたことから、この名前となったそう。江戸時代初期は木橋でしたが、元禄12年に有力者の岸村氏夫妻の私費によって石橋となります。大水害によって流出しますが再架され、昭和61年には階段付きの太鼓橋と変わります。